孫悟空にはなれない

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銭湯的コミュニズム、あるいは自然回帰水について

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 さして高さのない天窓から差し込む夕陽を大小さまざまの箱からたちこめる湯気が吸って淀んでいる。プラスチック製の桶がくすんだ色のタイルとの間でたてる乾いた音と備えつけの安いシャンプーのにおいが、熱すぎる湯とよく冷えた水風呂の絶えざる往還を包みこむここは東京・高円寺の銭湯、小杉湯である。

 名物のミルク風呂をはじめ日替わり風呂、ジェットバス、水風呂を備え駅から近いこともあってひとびとに好かれている。ぼくもかつて阿佐ヶ谷で居候をしていた頃によく通った風呂屋だ。
 小杉湯は「自然回帰水」と称する、水素水の親戚筋に当たるようなうさんくさい水を湯として使っていることが売りのひとつで、銭湯内のいたるところでそれはアピールされている。もちろんその効能を疑わず、あるいは半信半疑で湯船につかるのもそれはそれでよいことだろうと思う。しかし小杉湯に惹かれるのはそうした疑似科学的な道具立てのためではない。
 ではなにによってか? 端的に言ってそれはコミュニズムによって、である。

    *

 コミュニズムと耳にして即座にオーウェルの『動物農場』で描かれるような革命の規範化とその陰画としての反革命規定、あるいは強権政治と粛清その他、過去・現在のコミュニズム体制を想起しそれを非難するのはたやすい。同時にヒエラルキーを基にしたコミュニズムに代わるものとしてリベラルな言説を称揚し民主主義体制を言祝ぐのは最もありうる反応のひとつだろう。――しかし自由と民主主義の名の下になされた統治も同様に人びとを殺してきたのではなかったか。それは自由を標榜しながら結局は統治を呼び込む腹話術師の語りではないのか。

 もうよりよい体制をめぐって賢しらに言葉を費やすのはやめよう。たいせつなのは、体制としてのコミュニズムではなくいまここに生起するコミュニズムについて確認することである。
 デヴィッド・グレーバーはその複数の著作の中で繰り返し現にあるコミュニズムについて語る。いわくコミュニズムとは「いま現在のうちに存在しているなにかであり、程度の差こそあれあらゆる人間社会に存在するものなのだ」。たとえば、水道を修理しているときに誰かが「スパナをとってくれないか」と依頼したとする。その同僚は「かわりになにかくれるのか?」と応えることはない。それどころかかれは見返りを求めずスパナを渡すだろう。なんのことはない、常日頃目にするコミュニケーションの一例だが、これがグレーバーのいう「基盤的コミュニズム baseline communism」である。「各人はその能力に応じて働き、各人はその必要に応じて受け取る」というコミュニズムのあまりに有名な定式は資本主義社会でさえも見出されるのである(1)。

 銭湯ではそうした非互酬的なコミュニケーションが頻繁に出現する。ひとびとは誰に言われるのでもなく自分が使用した桶やシャンプーを使いやすいよう、もとあった場所にもどすのだが(2)、贈り物(munus)によって結合(cum)すること、これが銭湯では当たり前のこととして行われている。なぜそうしたコミュニズムが銭湯においては現われやすいの
かといえば、それは銭湯が私有の観念を束の間洗い流すからだろう。社会的な衣装を脱ぎ捨て裸でつかる湯はその場のだれのものでもない。あたりにたちこめる湯気だってだれにも所有されることはない。文明が強制してくる私有の観念は、常連のおじいちゃんがひとり湯船で気持ちよさそうに歌う歌とともに湯気の中に消え去るはずである(3)。

 ここで、かつて小杉湯のある高円寺を拠点に銭湯値上げ反対闘争があったことを銘記しておこう。矢部史郎と山の手緑はなぜ銭湯の値上げを阻止する闘争を行うのか、「なぜ銭湯なのか」を問われ次のように言う。

  私たちが若い銭湯利用者を対象にするのは、彼
  らがたいてい二万円代の住宅に住んでいて、そ
  のため、物事をクールに考えられるからです。
  クールというのは、支配的なイデオロギーから
  比較的自由だということです(4)。

 家賃の高いところに住むことはそのまましょうもない労働を続けなければいけなくなることを意味する。官僚制下の膨大で瑣末な体裁にこだわるペーパーワークやそれ自体無根拠な「社会人」の規範を絶えず再生産することでしか賃金が発生しないあの賃労働である。要するに家賃が高いと賃労働の必要度が高まり、比例して支配的な現実への信仰を強めることでしか生存を維持しづらくなるということだ。
 思い返せば、ぼくたちは文明や社会から心身をまるで小さな箱に押し込まれるようにして成型されてきた。碁盤の目のように並べられた机や学校、家でぼくたちは道徳的な善悪(倫理的なよい悪いではない)を教育されてきた。むろんその箱のなかで満足に生き死んでゆくひとたちがいて、自然回帰水を信じ充足する人と同様それはそれでよいことだ。た
だ、そこからどうしてもはみだしてしまう人びともまた厳として存在する。人びとは文明や社会と対置されるところの自然を生きずにはいられないのである(5)。

 銭湯にはそうした自然を生きる者たちを受け容れるだけの広さがある。言い換えれば、自然回帰水とは小杉湯だけにあるのではなく、基盤的コミュニズムの生い立つすべての銭湯とともにそれはあるのである。ただ、注意しなければならないのは回帰すべき自然があらかじめあるのではないということだ。回帰すべきアルケーがそれとして存在しているので
はなく、過去のある時点や「未開の」森のなかに自然が求められてはならない(6)。それは銭湯的コミュニズムを生き「物事をクールに考え」ることの実践を経過しなければならないのである。

 まるで浴槽から漏れ出す湯のようにして、箱から逃れる者たちの自然を生きること――この銭湯的コミュニズムは湯につかる者たちの微睡のあいまを縫って繰り返し現われるだろう。


註(1)デヴィッド・グレーバー『負債論―貨幣と
    暴力の5000年史』(酒井隆史・高
    祖岩三郎・佐々木夏子訳、以文社、201
    6・11)143頁。
 (2)李珍景は『無謀なるものたちの共同体―コ
    ミューン主義の方へ』(今政肇訳、イ
    ンパクト出版会、2017・2)のなか 
    で、ある空間を特定の人物だけに占有さ
    せるのではなく、他のひとたちも入ってき
    やすいものにするための実践として
    「領土性の痕跡を消す」ことを説いたが
    (343頁)、痕跡を残さないことは銭
    湯の基本的な所作のひとつである。
 (3)銭湯におけるこうしたコミュニズムがいわ
    ゆるスーパー銭湯では見出しづらいの
    は、そこが文明の論理で動いているからで
    ある。銭湯の何倍もの入浴料や刺青を
    しているひとびとの排除などを想起してほ
    しい。スーパー銭湯の「充実した」サ
    ービスの数々がカネ稼ぎの契機として機能
    していることを見るに、スーパー銭湯
    にあるサービスが「ない」と銭湯を欠如態
    で語るのを慎まなければならない。こ
    とは国家なき社会‐国家に抗する社会に関
    する叙述と相似である。
 (4)矢部史郎、山の手緑『無産大衆神髄』(河
    出書房新社、2001・1)14頁。
 (5)ミシェル・フーコー『真理の勇気』(慎改
    康之訳、筑摩書房、2012・2)で
    展開されるパレーシア論、とりわけキュニ
    コス主義的パレーシアを参照してもいいか
    もしれない。
 (6)レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』と自然
    への離脱を論じたものとして白石嘉治
    「現代思想レヴィ=ストロース『悲しき
    熱帯』からはじまる」(『上智大学仏語・
    仏文論集』、52巻、2018・3)参
    照。