孫悟空にはなれない

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風景と海――『ガンバの冒険』論

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"海は見なければ想像できない" というのは本当だ
海はすごく大きいとか果てがないとか思っていても
言葉だけのことであって実際に海を見たらね…
 ――ドゥルーズ『アベセデール』


 かつてあの松田政男は『風景の死滅』のなかでこう言っていた。(1)

  中央にも地方にも、都市にも辺境にも、そして
 〈東京〉にも〈故郷〉にも、いまや等質化され
  た風景のみがある。私たちが、かりに津軽平野
  に広漠と連なるリンゴ園を見たとしても、それ
  は決して緑の森林としてではなく、しろくま
  らに汚れた農薬の撒布がただちに私たちの灰色
  の首都を連想せしむるていのものとしてしか映
  じないのだ。
  (中略)
 〈東京〉対〈故郷〉という図式は、六〇年代のど
  んづまりにおいては、ついに通用不可能となっ
  てしまったことを私たちは確認しなければなら
  ない。わが独占の高度成長は、日本列島をひと
  つの巨大都市として、ますます均質化せしめる
  方向を、日々、露わにしているのではないか
  。(2)

 〈東京〉とは、実は、巨大なるコピーの集積であ
  り、そしてかつてオリジナルなものとしてあっ
  た〈故郷〉とは、今日、巨大なるコピーのさら
  なるイミテーションとしてしか存在していない
  のだ。(3)

 松田が制作に携わった映画『略称・連続射殺魔』を見てほしい(4)。1968年の冬、4つの殺傷事件を起こした永山則夫が日本各地を遍歴する道程で目にしたであろう〈風景〉をつぶさに追っていくカメラには、たとえそこが網走呼人番外地であっても鉄道や道路=インフラが張り巡らされ〈都市〉への否応ない接続と模倣が映される。もはや〈都市〉と対比されるところの〈地方〉は姿を消している。
 そこに見出されるのはどこまでいっても都市、都市、都市、ただひたすらに都市である。

        *

 『風景の死滅』出版の4年後、斎藤淳夫・薮内正幸『冒険者たち――ガンバと十五ひきの仲間』(5)を原作としたテレビアニメ『ガンバの冒険』(6)が放映された。
 高度経済成長末期の〈風景〉、繁栄の裏で生産された都市の膿が幾筋も集まって形成された水路から2匹のネズミが現れる。画面に映されるのは首都高を思わせる立体交差式の道路であり、頑張り屋のガンバと食いしん坊で穴掘り名人のボーボが猫から追われて逃げ込んだ空き缶は都市へ/からの荷物を積んだトラックにはね飛ばされる。

ボーボ お腹はすくし、危ない目には遭うしもう帰
ろうよ。

ガンバ 帰りたかったら帰ってもいいぜ。オレはひとりでも行くよ!

ボーボ ほんとに、ほんとに海をひと目見たら帰るね?

ガンバ ああ、ひと目な、ひと目海ってやつをこの目で見たらな。

ボーボ ねぇねぇガンバ、海ってっと、どっどんなんかね?

ガンバ 知らないから行くんじゃないか。知ってたら行かないよ。

ボーボ そりゃまあそうだけど、きっきっきっきれいかね?

ガンバ うーん、かもね。

ボーボ おっおっきいかね?

ガンバ うーん、かもね。

ボーボ このまま海行けるといいなぁ。(7)

 ガンバたちは発泡スチロールの船で川を下り、海を目指すのである。
 港についたガンバとボーボはその夜、倉庫で開かれた船乗りネズミたちの宴に参加する。船乗りネズミを束ねる力持ちのヨイショ、物知りのガクシャ、のんだくれで詩人のシジンらと出会い楽しいひと時を過ごす。
 突如宴に深手を負った1匹のネズミが息も絶え絶えに入ってくる。夢見ヶ島から逃れてきた忠太である。シジン・ガクシャの介抱により息を吹き返した忠太は、白イタチのノロイをリーダーとするイタチの軍団によって島中のネズミたちが殺され自分も命からがら逃げてきたこと、背中の傷はそのときにできたこと、そして夢見ヶ島はいまやノロイ島と呼ばれていることを告げ、島の仲間を助けてほしいと船乗りネズミたちへ呼びかける。  
 はじめは島の惨状に同情し、夢見ヶ島へ赴く決意を固めた船乗りネズミたちだったがノロイの一語を耳にした途端怯み、倉庫から去って行く。ノロイはネズミが束になっても到底かなう相手ではなく、ノロイ島でノロイたちと闘うのは死ににいくようなものだからである。船乗りネズミたちの前でリーダーのヨイショに「七つの海を渡り歩いた俺だって手は出せねぇ」(第1話「冒険だ海へ出よう!」)と言わしめるのがノロイである。
 ノロイの名に恐れをなし冒険から降りたネズミたちを詰り、忠太と船に乗り込んだガンバは、ボーボ、ヨイショ、ガクシャ、シジンが忠太とガンバを見捨てきれず船に乗り込んでいたことを知り涙する。足の速さが取り柄で2つのサイコロを操る博徒イカサマも加わり、ガンバ、ボーボ、シジン、ヨイショ、ガクシャ、忠太、イカサマの7匹を乗せた船はノロイ島へ向けて解纜する。ノロイ島への路は負けるとわかりきっている旅である。しかし、ガンバの言うように「ただ海へ出てノロイに行けってしっぽがうずく」(第2話「ガンバ、船で大暴れ」)のだ。
 一行はイカサマの住む町へ赴いたり(第3話「忠太を救え! 大作戦」)、無人の戦艦で巨大魚に出くわしたり(第5話「なにが飛び出す? 軍艦島」)、キツネに襲われるリスたちを助けたり(第7~9話)、ボーボが1匹のリスに初恋をしたり(第8話「ボーボが初めて恋をした」)、海でイルカの背中に乗せてもらったり(第10話「かじって別れた七つのイカダ」)、人間の山岳ガイドに雪山で助けられたり(第15話「鷹にさらわれたガンバ」)と様々な道中が描かれるがそれは本稿では紙幅の関係上書くことができない――。ごく簡単にノロイ島へと上陸したガンバたちをみてみよう。顚末は以下の通りである。
 ガンバたちはオオミズナギドリのツブリたちの協力を得てノロイ島へと上陸する。島の仲間たちと合流し、抵抗を続けるガンバたちだったが遂に海に浮かぶ小島の洞穴に追い詰められる。狭い空間にネズミたちがひしめき合い、水と食糧が欠乏するなか仲間同士のいさかいが描かれ、ノロイによるネズミたちの分断――停戦の申し入れと宴の誘い――が仕掛けられる。ノロイの懐柔策を断ち切ったガンバたちは、島に伝わる民謡から潮の流れを読み、渦に巻き込ませることによってついにノロイたちを倒すことができた。かくして島のネズミは解放され、忠太と別れたガンバたちの新たな冒険への出発が印しづけられて物語は幕となる。

        *

 子供向けアニメなのに恐ろしく描かれすぎているノロイ(8)や仲間の凄惨な死と裏切りなど、この作品は大人にも訴えかけるものがあるなどと評されるのが常であるが、ある意味ではそれも当然の意見である。なぜなら『ガンバの冒険』は戦禍の蔭で繁栄を享受した大人たちに、第三世界への出立と革命、とりわけ党と国家の問題を見せつけるからである。
 ノロイへの抵抗は、ガンバたちの党が中心となりなされていく。岩山に砦を築くのもガンバであれば、そこからの出立を指揮するのもガンバである。途中まではガンバたちの指導に異議は出てこないが、追い詰められ飢えたネズミたちはガンバたち党へ不満を噴出させることになる。おまえたちはわれわれ島のネズミになにももたらさないではないか、と党に対して批判の声を上げ洞穴から出ようとするネズミたちにガンバは「勝手なまねはするな!」(第23話「裏切りの砦」)と制する。前衛党と人民の支配―被支配関係がまるで当然のことのように呈示されるのだ。
 ガンバたち7匹のパーティーのイデオローグであるガクシャは「諸君は頭を使わなくてすむ肉体労働を主にやってほしい」(第4話「嵐にやられてメッタメタ」)とまで宣う。島に至るまではガンバたち7匹の間で頭と肉体が分離され、島に着いてからは7匹と島ネズミたちの間で頭と肉体が分離されるのである。
 ガンバたち7匹の内部に伏在する統治への欲望は、ガクシャの発案でノロイ島上陸前に7匹の中でのリーダーを決めようとした際に如実に現れる。各自が一定期間リーダーを務め、しかる後正式のリーダーを決めようとするのだが、しかしそこではほとんどのネズミは集団を統率する力を行使しようと――頭になろうと――努め失敗する。普段は穏やかなボーボでさえリーダーを任された途端食糧を独占し分配を拒否するのである。
 最終的にはノロイ島を前にリーダーの不在を肯定する――「これからはリーダーというよりもわれわれ7匹がもっともっと力をあわせるということが必要だと思いますな」(第17話「走れ走れノロイは近い」シジンの台詞)――ものの統治への欲望は島ネズミたちへと向かうことになる。
 そしてこの党には女が不在である。
最期に追い詰められた洞穴で「女年寄りはかえって足手まといだ」(第25話「地獄の岩穴」、イカサマの台詞)と評価され穴の奥へと押し込められる女たちは子どもの世話や病人の看護を任される。こうしたバリケードの中の性別役割分業は、原作ではより直截に描かれるが(9)、女の抑圧は『ガンバの冒険』全体を底流するモチーフである。第1話でヨイショのパートナーのユリイは忠太の看護を任され港から7匹を見送るが、特別セリフは用意されず、ただ頬を涙が伝うだけである。船乗りネズミの宴でも女は彼女の他には登場しないのだ。描かれるネズミはと言えばケアする女――ユリイ――や男の目をひく容姿をした女――潮路やイエナ――だけである。ノロイ打倒の鍵となった民謡も女を欲望する男の歌ではなかったか(10)。
 こうした女不在の党は排除とヒエラルキーを基調とした国家=ノロイの鏡像となってしまうだろう。
 ガンバたちを前にノロイは手下のイタチに向かってこうささやきかける。「またまだころすな、いつでも殺せる、ゆっくり殺そう、楽しく殺そう、薄汚いネズミどもを」(第20話「白イタチノロイを見た!」)――。国家の統治に叛く薄汚いネズミたちは、国家の暴力によって「いつでも殺せる」。軍隊を動員すればこれまで島ネズミを虐殺してきたように、それは容易い。しかし国家というものが概してそうであるようにノロイは暴力のみに頼ることはしない。ノロイはネズミたちへと対話――「さあこっちへ来なさい。そこでは遠くて話もできない」――を持ち掛けるのであるし(第20話「白イタチノロイを見た!」)、あるいは前述のように、海の小島で飢えるネズミに向かって食糧の提供を約束するのだ。
国家権力とはただ単に物理的暴力の行使を意味するのではない。みなさんのためを思っていますよ、国家は国民のみなさんのためにあるんですよと笑みを浮かべて近寄ってくるのである。むろん、それで助かる悲惨もある。使える道具は使っておく方がよいのかもしれない。だが、それらは罠ではないと言い切れるのか。「ゆっくり殺」すための甘言にすぎないのではないか。
 また、ガンバたちはノロイの眼光によって催眠をかけられ体を傷つけられても気づかない(第20話「白イタチノロイを見た!」)。ノロイは国家の呪術的部分を、手下のイタチは国家の暴力をそれぞれ担うが、ノロイの呪術的性格は国家の象徴たる白への偏執にも現れているだろう。ネズミを切り裂き、噴き出た血が白百合にかかったのを目にしたノロイは激怒する。「おまえたちはこの世で一番美しい白い花を汚した。わかっているはずだな、白を汚したものはどうなるか」(第21話「涙にぬれた13の瞳」)。白を赤で汚した手下のイタチはノロイによって処刑されるのである(11)。
 そしてガンバの党が島ネズミたちから上がる声を制し、女の声はそもそも限定的にしか描写されないのと同じく、ノロイの手下は一言も言葉を発しない。また、女に固定的な役割をあてがうことはガンバたちの主観によっては国家を打倒するために必要なことであり、同時に女たちのためを思ってのことだろう。しかしそうした自己の無謬性への信頼と目的論こそが党に国家を映現させるのだ。党と国家の鏡像関係、国家を打倒する途上での党の国家化がここにある。
 冒頭で引いた松田政男は、こうも言っていた。

  風景は死滅し、そして死滅せざる国家が残っ
  たのである。かくて、〈風景論〉は正確に〈国
  家論〉として再構成されざるをえなくなる
  。(12)

均質化された風景はすなわち国家の遍在化である。ガンバの出立する都市も国家であれば、ノロイ島もまた国家である。ノロイの脅威が去った後、数え切れない仲間たちの死を悼み、ガンバたちは島を去るが、ガンバたちの党不在の夢見ヶ島にはふたたび党と国家が立ち現れるのだろうか。ここからは島に残った忠太と島ネズミたち第三世界人民の努力によるしかない。
 しかしなにより見ておくべきは、直接にはノロイはガンバたち党によって倒されなかったということである。それは海によってこそ破壊されたのだ。ガクシャは島に伝わる民謡を読み解くことによって、渦潮にノロイを沈めることをおもいつく。ネズミたちがさらに沖の島を目指して泳いでゆき、波とネズミが見分けがたくなったそのときにノロイは水底へと退場するのである。
ガンバの冒険』の最終話(第26話「最後の戦い大うずまき」)、エンディングテーマが流れる直前の箇所でシジンは海を讃える。

  こんなにひろーい、こんなにおおきいうみ、う
  みうみみうみうみ、わたしたちはちいさなね
  ずみです。だからよけいわかるのですこのすば
  らしいひろさを。このすばらしいおおきさが。
  おしっこをしてもゆるしてくれますね、おおつ
  ぶのなみだをこぼしてもゆるしてくれますね。
  わたしたちはたびをつづけます。みていてくだ
  さい。わたしのちいさなちいさなちいさなぼう
  けんを。

 ガンバとボーボが海を目指し、シジンが海を讃える『ガンバの冒険』は海にはじまり海に終わる。原作でも「海と、島と、仲間と、力強い歌声。他に、何か必要ですか?ぼくは、これで、十分だ。これで……」というボーボが死の間際に発する美しい一節があるが(13)、ガンバたちはいつも海とともにある。彼らは「なぜか、こうして海を見ていると、自分が生まれた時からずっと海のことを考え続けており、毎日のように海を見続けていたような気にさえなってくる」のである(14)。作画監督椛島義夫によれば、ガンバが海をはじめてみたシーン(第2話「ガンバ、船で大暴れ」)は出崎統監督の指示によってアニメーターの草稿が背景担当によって描き直され、その結果『ガンバの冒険』での作画を決定づける場面になったという(15)。
 こうした海のもつ得体の知れなさとわれわれを惹きつける魅力について、フランス文学者の白石嘉治は以下のように書いている。

   海は近代の政治哲学を浸している。ホッブズ
  の「リヴァイアサン」自体、旧約聖書に由来す
  る海の怪物レヴィアタンである。さらにカー
  ル・シュミットは、そのレヴィアタンと陸の怪
  物ベヒモスとの宿命的な敵対として、国家主権
  の歴史を紡ぎだす(『海と陸と』1942)。海
  は陸にとっての脅威であり、シュミットにとっ
  ては、イギリスの海洋帝国はヨーロッパ大陸
  国家に対置されるべきものだった。
   こうした政治哲学的な形象には、美学的な起
  源があることを確認しておこう。ホッブズの生
  きた17世紀、海は「何かわからないもの」の
  典型として論じられていた。それは表象や定義
  をのがれるが、驚異として情動をかきたてる。
  この「何かわからないもの」をめぐり「崇高」
  概念が練り上げられ、カントの『判断力批判
  (1790)では、そうした「崇高」の感得にお
  いて示めされるのは、理性の限界であり、倫理
  的な実践をうながす確信のありかである。じっ
  さいパリ・コミューンの闘士たちは、みずから
  を「崇高なる者」と呼ぶ。その蜂起で賭けられ
  ていたのは、国家理性の非道にたいする情動の
  絶対的な肯定である。
   海は交易の場であり、蜂起の崇高な情動のや
  どる揺籃である。この両義性は、網野善彦の語
  る海民についてもいえる(『無縁・公界・楽』
  1978)。網野はシュミットの図式を反転させ
  る。陸の秩序にしたがう農民にたいして、海民
  には移動のゆたかさがある。海は陸の俗界から
  切り離された「無縁」の場であり、その聖性に
  おいて自由な交通も可能となる。だが、海は市
  場の別名ではない。それは遊動し、捉えがた
  く、無限の反復をはらむ。あらゆる尺度からの
  がれ、陸の統制も市場の交換も知らない。その
  無償の力能は怪物そのものであり、げんに古代
  の伝承では、ベヒモスレヴィアタンとともに
  海に棲む。われわれが海をまえに感じるのは、
  尺度や鋳型のない無償の世界のはじまりであ
  り、その「準平衡」(シモンドン)の過剰な飽
  和のひろがりのただなかから、無数の怪物たち
  が姿をあらわす予感にほかならない。(16)

 海は表象からたえず逃れ去る。ガンバの冒険は海を一目みようと開始されるが、冒険の途上なんど見ても海はけっして捉えきれない。ことは歴戦の船乗りガクシャやヨイショもおなじである。ボーボは海を前に吃るほかなく、シジンの詩が完成をみることはないだろう。
 そうした海を前にしてなされるべきは博徒イカサマのようにただ丁か半かに張ることではない。たいせつなのは、超か反かを見きわめ、国家をわれわれのうちから払いのける海の身ぶりへと自らを賭けることである。
 永山則夫の旅を追った『略称・連続射殺魔』が映し出すのは均質化された都市、遍在する国家であった。対して、党―国家の軛から遠く離れた風景の果てに見出されるのは、どこまでいっても海、海、海、ただひたすらに海である。



(1) 松田政男『風景の死滅』(田畑書店、1971・10)。これを読むあなたが「あの」と聞いて即座に「どの?」と問い返すようなWikipedia的知性を働かせたならぜひ一読をすすめる。
(2)(1)12頁。
(3)(1)120頁。
(4)YouTubeに全編上がっているhttps://www.youtube.com/watch?v=swRSsBmUVKQ 
(5) 斎藤淳夫/作、薮内正幸/画『冒険者たち――ガンバと十五ひきの仲間』(牧書店、1972)。
(6) 監督:出崎統東京ムービー、1975年4月7日 - 9月29日放映。
(7) 第1話「冒険だ海へ出よう!」。ボーボの吃音は作中この箇所においてとりわけ強調されている。
(8) 原作だと『しあわせソウのオコジョさん』のオコジョさんのような見た目をしているし、パレットというネズミとダンスバトルがおこなわれるなどあんまり怖くない。
(9) 「ごく一般的にいって女は男にくらべてだめだ、いや、力が弱いといいたかっただけなんだ」とガンバは潮路に向かって口をすべらす。(5)232頁。
(10) 〽そろたそろたよ仲間がそろた 一年ぶりにまたそろた 踊り踊らば あの娘と踊れ 赤い蘇鉄の咲く下で 娘欲しけりゃ泳いで渡れ 赤い蘇鉄の咲く下で 年に一度の早瀬川 渡れ渡れよ泳いで渡れ 月が満ちたその日のうちに あーあよーいっとどっこいさ
(11) 女の血液を不浄とみなす男を想起しよう。高野連日本相撲協会はそれが管轄する競技が国民的である限りで、国家の出先機関である。
(12)(1) 286・7頁。
(13)(5) 341頁。
(14)(5) 167頁。
(15)BSアニメ夜話ガンバの冒険」。https://youtu.be/bNchvmUcclc
(16)白石嘉治、矢部史郎編『VOL lexicon』(以文社、2009・7)、23頁。